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『日置流(へきりゅう)』


日置弾正正次(だんじょうまさつぐ)(?―1502)を流祖とする弓術流派。正次は影光(かげみつ)、宗品(むねかず)、豊秀(とよひで)などともいい、道以(どうい)または威徳(いとく)と号し、剃髪(ていはつ)して瑠璃光坊(るりこうぼう)とも称した。関連文献によればその出生を大和(やまと)とする説や伊賀(いが)とする説などさまざまあるが、信じるに足る文献は少ない。正次に関するもっとも古い文献である『本朝武芸小伝(ほんちょうぶげいしょうでん)』や『武術流祖録(ぶじゅつりゅうそろく)』によると、日置弾正正次は大和の出身で弓術に妙を得たのち諸国を遊歴し、晩年になって紀州高野山(こうやさん)で剃髪し瑠璃光坊を号し59歳で卒した、とある。戦場では彼に敵する者なく、あるとき矢種が尽きたので土居陰に隠れていて敵が襲ってくると、いきなり出て弦打(つるうち)して「えい!」と掛け声するだけで敵方は怖れて逃げていったというエピソードが残っている。


一方大和流関係伝書などでは、伊賀の出身で弾正政次(だんじょうまさつぐ)という人物がいた。彼は北面武士(ほくめんのぶし)であったが、病により大和に籠(こも)り弓術の研究に専念し、ついに神射至妙の境地に達した。その後諸国を遊歴し1494〜1500年(明応3〜9)ごろ近江(おうみ)源氏佐々木氏の一族吉田家の吉田重賢(しげかた)・重政(しげまさ)親子(吉田流)へと伝えられた、とある。


また別伝によると、応永(おうえい)期(1394〜1428)日置貞次(さだつぐ)という弓術家に二子あり、長子を弾正正次といい大和国に、次子を弥左衛門範次(のりつぐ)といい伊賀国にそれぞれ住んでいた。伊賀の日置はその後安松左近吉次(やすまつさこんよしつぐ)にその伝を与え、以後その子新三郎―弓削弥六郎(ゆげやろくろう)―石堂竹林坊(いしどうちくりんぼう)如成(なおしげ)(「じょせい」とも)……と受け継がれたのが日置流竹林派であるという説である。


このように正次・範次の人物像について諸説紛々でいまだ推測の域を出ない部分が多い。いずれにしてもこの日置流は戦国動乱の時代にあってそれまでの形式化した故実主義的な弓術の在り方に対し、実戦の洗礼のなかから生まれ実利を主眼に組み立てられた革新的な歩射(ほしゃ)射法として広く受け入れられた。そのため日置弾正正次は日本弓術中興の祖とうたわれている。


[ 日本大百科全書(小学館) 執筆者:入江康平 ]