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弓 道


弓矢さんのブログ

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矢作り工房

1. 概 要

2. 弓道の歴史

3. 現代弓道

・用  具

・射  法

・施設・設備

・競技法の概要


弓  道

1. 概 要

弓道


 弓道とは、日本の風土と歴史のなかで実利性、宗教性、芸道性、教育性、競技性など多様な性格が絡み合いながら発展してきた日本固有の世界に誇れる弓射文化である。弓道は、年齢、性別、体力、体格にあまり左右されずだれもが親しむことのできる優れた運動特性をもっており、日本では若い人々をはじめ、近年中高年層にも愛好者が増加している。




日本の弓射文化は次のような特徴がみられる。原始時代は短弓であったが、古代には2メートルを超える南方系の長弓が使用されるようになった。弓材は原始、古代中期までは木弓であったが、古代中期以降裏反(うらぞ)りを施した木・竹合成弓となり、その構造も時代が下るにつれ改良され今日に至っている。また機能的には握り部を全長の約3分の1下のところに置き、発射時の右手に対する衝撃がないように力学的にくふうされている。射法(主として取懸(とりか)け法)は広く東アジアに普及した蒙古(もうこ)式射法が採用されている。

日本の弓射の目的が狩猟や戦いの武器、すなわち実利の具として使用されたことは諸外国と同様であるが、時代が下るにつれその威力から神器、聖器として尊崇される思想が形成されるようになる。一方中国古代にみられる文射思想(文射とは儀礼射による人間教育としての側面)の影響を受け、古代朝廷儀式のなかに儀礼射行事が行われるようになった。射は歩射(ほしゃ)騎射(きしゃ)に大別できるが、歩射ではその目的によって的前(まとまえ)、遠矢前(とおやまえ)、差矢前(さしやまえ)、敵前(てきまえ)などがあり、さらに近世になると堂射(通し矢、堂前とも)が盛行した。また騎射も鎌倉時代に隆盛し、それぞれの目的に応じた射法や射術、用具などにくふうが凝らされた。鉄砲伝来後日本の弓射はその実利的価値を後退させるが、武射(弓矢の武器としての実利的側面)と文射の融合が図られ、近世武士教育の具として実践され、近代になってからは学校教育や社会教育に資するものとして広く親しまれ今日に至っている。また近年は諸外国からも関心が寄せられ、国際的な活動組織も発足している。



2. 弓道の歴史

弓矢 矢尻


人類がいつごろ弓射文化をもつようになったかについて正確には不明であるが、旧石器時代末期から新石器時代の初期には弓射文化をもっていたとされ、いまから約1万年前のものと推定されるスペインのアルペラ洞窟やカスチロン洞窟に描かれたを引く人物像は有名である。日本のについてみると、その使用は縄文時代以前にさかのぼるとされており、現在発掘されているもっとも古いとしては縄文時代前期のものが発掘されており、時代が下るにつれしだいに発掘品が多くなっていく。それらをみると長さが1.5メートル以下のイヌガヤ材でつくられた丸木弓であり、なかには破損や腐食防止のため漆塗りや樹皮巻、さらには弓腹(ゆばら)(の内側)に樋(ひ)(溝)を通したりしているもみられる。は箆(の)(矢幹(やがら)、矢柄(やがら)、矢箆(やがら))、羽、鏃(やじり)、筈(はず)で構成されているが、原始時代のがどのようなものであったかについては現在のところ鏃にみるしかない。縄文時代の鏃として黒曜石を中心に瀝青(れきせい)石や讃岐(さぬき)石でつくられた鏃が全国各地から数多く発掘されている。弥生時代になると骨製とともに銅や鉄製の鏃がみられるようになり、時代が下るにしたがい鉄鏃が主流となってさまざまな形の鏃がつくられるようになる。箆は竹材が中心であったと考えられ、矢羽として二枚羽や三枚羽がつけられていた。




日本の3世紀ごろの風俗、習慣について述べた『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』や『前漢書』地理志のなかに、「木弓は下は短く上を長くし……」とあるように、すでにこのころの日本のの握り部が中央より下にあることが記されており、5世紀ごろのものと考えられる発掘品のは長さ2メートルもあり、おそよ上下7対3の位置に握り部がある。平安時代中ごろになるとこれまでの丸木弓の外側に竹を貼り付けたが考案された。これを伏竹弓(ふせだけゆみ)という。さらに平安時代末期から鎌倉時代初期になると伏竹弓の内側にも竹を貼り付けた。この三枚打弓(さんまいうちゆみ)という。また室町時代になると芯(しん)に木を入れ、内、外、両側面に竹を貼り付けた四方竹弓(しほうちくゆみ)、さらには内外を竹、両側面を木、芯に何本かの竹籤(ひご)を用いた弓胎入(ひごい)り弓がつくられるようになった。


射法でもっとも顕著な相違として現れるのは、右(左)手指でつがえられたと弦(つる)をどのように持って引くか、すなわち取懸け法の相違である。この取懸け法は時代や民族、地域によって相違がある。もっとも古く素朴な取懸け法は
(1)つまみ型Pinch Method、
(2)つまみ型の変形であったと考えられるが、その後、
(3)地中海型Mediterranean Form、
(4)蒙古(もうこ)型Mongolian Formへとそれぞれ発展、伝播(でんぱ)していった。日本の弓射文化は地理的、歴史的にみて東アジア圏にあり、
(4)蒙古型Mongolian Formの取懸け法が行われ今日に至っている。


奈良時代から平安時代の約480年はさまざまな朝廷行事が制定され盛大に行われた時代であるが、射礼(じゃらい)や賭弓(のりゆみ)などの歩射行事や騎射節(きしゃのせつ)の行事も中国文化の影響を受け、文射的性格のもとに盛んに行われた。これらの弓射行事は朝廷の公式行事であったため委細が定められた。歩射に携わる専門の家柄としては伴氏や紀氏が知られており、この両家を中心にしてしだいに弓矢の操法や所作進退の法が定まっていった。一方平安時代中・末期から鎌倉時代にかけて各地に起こった戦乱のなかで、弓矢は有効な戦闘武器の最右翼として尊重された。武士を「弓矢とる身」、その在り方を「弓矢の道」などと称し、とくに鎌倉武士は騎射の三物(みつもの)といわれる

流鏑馬(やぶさめ)笠懸(かさがけ)犬追物(いぬおうもの)
流鏑馬 笠懸 犬追物
の訓練を盛んに行った。このころの弓射行事の記録のなかに騎射の家柄として武田・小笠原両家の名がみえるようになる。





南北朝時代から室町時代初期にかけて武器の操作法にくふうがみられ、応仁(おうにん)の乱から戦国時代にかけて武術の進歩が目覚ましい。個人の戦いの技術である武術は、当初は生まれもった運動能力のみに頼るものであり、次代への継承も血族、同族など狭い範囲にとどまっていたと考えられるが、15〜16世紀ごろになると、弓術をはじめ馬・剣・槍(やり)など各武術分野に優れた才能をもつ人物が出現する。この名人・達人たちがそれぞれにたてた武術理念のもとに編み出した技術は、非力な者でも一定の指導手順のもとに継続的に学べば、強い相手にも勝つことができる優秀なものであったため、その技術を学ぼうとする者が現れるようになる。ここに師弟関係が生まれ、技術体系や伝達方式が整備されていく。このように特定の理念とそれを背景にした優れた技術の確立をもって流派が誕生するのである。弓術においてはこの時代歩射射術に革新的な射法、射術を創始した日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)が現れた。日本弓術の中興の祖とされる彼の標榜(ひょうぼう)する日置流は後に雪荷(せっか)派、道雪(どうせつ)派、印西(いんさい)派、大蔵(おおくら)派、竹林(ちくりん)派などに分派し全国各地に広まり定着し、江戸時代になって成立した大和(やまと)流にも大きな影響を与えた。


江戸時代になり武術はその実利性が後退する一方、心の問題の重要性に対する気づきから禅と結び付き心法に意が払われるようになる。また儒教の普及により武士教育は武術と儒教の二本柱により行われるようになるが、弓射歩射、とくに小的前(こまとまえ)を中心に主として上・中武士のたしなみとして実践された。この時代特筆すべきは堂射が盛行したことである。堂射は京都三十三間堂(後には江戸でも行われた)の西側外縁の制限された空間を一昼夜かけて射通す競技であり、その最高記録は1686年(貞享3)紀州の和佐大八郎(わさだいはちろう)(大八とも)が出した8133本(惣矢数13053射)であり、この記録はその後破られていない。幕末になり設置された講武所で一時弓術や犬追物が採用されたが、まもなく除外された。


明治時代一時衰退していた弓術も時代が下るにつれ復興の兆しがみられるようになる。国民のナショナリズムの高揚とともに武術に対する関心が高まり、1895年(明治28)大日本武徳会の設立により弓術も柔道、剣道などとともに奨励されるようになり、昭和前期には全盛期を迎えた。一方学校教育の場でも1936年(昭和11)に正科教材として採用された。第二次世界大戦が終わりを告げることにより大日本武徳会は国家主義、軍国主義に協力したという理由で解散を余儀なくされ、学校では弓道をはじめ各武道の実施が禁止された。その後弓道は1951年には学校での実施が認められ、1967年には高校の正科体育教材として採用された。一方弓道の全国組織として1949年(1947年全日本弓道連盟を設立したが解散)日本弓道連盟が設立され、1950年日本体育協会加盟、国民体育大会への参加などを経て1957年財団法人全日本弓道連盟として新たに発足した。そして弓道の普及、発展のため指導者養成の講習会や称号段位審査、各種競技会の主催、後援などの事業を行い今日に至っている。2008年現在登録会員は約13万人とされているが、潜在的な愛好者は相当数いると考えられ、古くて新しい運動文化として関心が寄せられている。海外における弓道は戦後ヨーロッパを中心に徐々にではあるが普及し、1972年欧州弓道連盟連合会が設立され、2006年(平成18)5月には17か国参加のもと国際弓道連盟(IKYF)が発足した。


3. 現代弓道


現代弓道は他武道のように対人形式でなく固定された標的に対しての弾性を利用してを正確に射当てることを目的とするもので、その修練を通して人間形成に寄与しようとするものである。その運動はきわめて静的な動きのなかから瞬間的な動的運動が要求されるため、心気の安定と厳しい自己統制が求められるという特性をもっている。個人の心・技の善悪が直接結果に反映し、その責任のすべてが射手自身にある。したがって弓道ではつねに反省、和敬、克己、謙虚さが求められる、つねに威力あるを正確に的中させるためには、健全な身体と安定した心気、修練を重ねた技術が必要であり、そのためには冷静、沈着、勇気、果断などが不可欠となる。弓道は徳育的・体育的効果とともに人間として教養を高め生活を豊かにすることをねらいとしている日本の風土と歴史に根ざした伝統的な運動文化であるといえよう。




[ 執筆者:入江康平 ]