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『流鏑馬(やぶさめ)』

流鏑馬


馬を走らせながら、雁股(かりまた)をつけた鏑矢(かぶらや)で三つの的を順次射る射技。その名は「矢馳せ馬(やばせめ)」の転訛(てんか)という。1096年(永長1)4月には白河(しらかわ)上皇臨席のもとに鳥羽(とば)殿の馬場で、同年5月には高陽院で催されており、当時京洛(けいらく)の武者たちの間に普及していたことがうかがわれる。ついで鎌倉時代に入ると、将軍源頼朝(よりとも)の奨励と法式の統一化もあって、鎌倉の地でも盛んになった。一方、早くから祭礼、神事とも結び付き、城南寺祭や新日吉(ひえ)社の五月会(さつきえ)、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)放生会(ほうじょうえ)などでも12世紀中には恒例化して奉納されている。また、たとえば肥前国河上宮(かわかみぐう)でも、1162年(応保2)には5、8月の神事流鏑馬が中絶している記録もあり(『平安遺文』)、地方でも神事との結び付きは意外に早かったことがうかがわれる。そしてしだいにこの神事の流鏑馬が本流となっていった。


おもに室町時代の故実書によると、長さ約218メートル(2町)の馬場に、的串(まとぐし)にさした約54.5センチメートル四方の檜(ひのき)板の的を、馬の出発点から約36.4メートル(20間)、72.7メートル(40間)、同じく72.7メートルの間隔で3本立てる。当初は的を役人が持っていたが、のちには馬の走る「さぐり」から数メートル離して地面に差し立てた。鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬で、射手より地位が低いと思った熊谷直実(くまがいなおざね)が、この的立の役を拒否した話は有名である(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)。


射手装束は、普通、水干(すいかん)に射籠手(いごて)、手袋、行縢(むかばき)、物射沓(ものいぐつ)を着し、烏帽子(えぼし)の上に綾藺笠(あやいがさ)をかぶり、太刀(たち)、腰刀を帯して箙(えびら)を負う。員数は数騎から十数騎まで一定していない。流鏑馬は鎌倉時代を最盛期に以後武士の間では衰退するが、江戸時代に至って、8代将軍徳川吉宗(よしむね)が古記録などをもとに再興して小笠原(おがさわら)家に伝え、その法式は新儀流鏑馬とよばれ、今日も新宿区無形文化財に指定されて継承している。また、毎年9月16日に古式にのっとって奉納される鶴岡八幡宮の流鏑馬も著名である。このほか、各地には本来の姿とはかなり変化した形で伝わっているものも少なくない。


[ 日本大百科全書(小学館) 執筆者:宮崎隆旨 ]